AKBINGO!EP485 アイドル達がダンスでバトル!この手の企画の楽しみ方
いや~
だからそうかー…あれはもう1か月も前になるのかぁ…
加藤美南「愛しさのアクセル」について字数制限超えて結果4回にわたってお送りした試み
ここで存分にかとみなのアイドルパフォーマンスと、歌について語ったわけだが、あれを余さず全部読んだ連中がいるとすれば
「コイツ何言ってんだwww」
「コイツ頭おかしいwww」
「自己満妄想野郎の暴走www」
なんて思われてもいただろう。。
でも、それで良い。
わからんやつには絶対に分からないし
見えないやつには絶対に見えない
「真・芯・深」を捉えて抉り見ることをしないといけない。
そしてそれを見れる者だけが楽しめる世界、理解できる世界って、やっぱり存在しているものだ。
そんな自分だから
AKBINGO!内で稀に見られる「演じ手と審査員」とで別れて披露しコメントをもらう企画。
これ系、結構、個人的には好きな企画で、当たりハズレ(ハズれるととてつもなく寒いんだけど)演じ手(アイドル達)がそこそこ踏ん張って上手くやってくれるとこの手の企画はなかなかに楽しめる。
どう楽しめるかって…
まず、彼女たちのパフォーマンスをじっくり観賞してから
自分なりに「ここいいなー」「ここがう~ん」「ここすごい!」「これいいね!」「これはダメだ。。」と、審査員気取るのではなくて、彼女たちが繰り出すパフォーマンスの内面世界を抉り見て自分なりの見え方、感じ方・感想を「かとみな愛しさのアクセル」並みに咀嚼して消化して絵を確立してから、プロたる審査員のコメントを観る、聞く。
プロと意見が同じだ―やったー!
ではなくてね。(もちろん同じ指摘や感覚と一致すればそりゃ嬉しいものだ。。)
ド深夜の虫けらみたいなアイドルのバラエティ番組で、そこまでして、そんな観方をしている偏屈丸出しのアホもよ~おらんやろけど。。
作品鑑賞の目の鍛え込みは、たまにはやらないと衰えるものだし、流行的なことや技的なことでも後れを取ってしまうから、やるにこしたことはないんだよね。
それで何が素晴らしいって、普通は、「かとみなの愛しさのアクセル観賞」のように、こっちが勝手にあーだこーだと一方的に述べるしか術がないのに対して、この手の企画だと、ガチのプロの人らが審査員となって「こーだね、あーだね」って述べてくれる点が楽しげなんだよね。
それでもっかい言えばプロと同じ意見だやったー!ではなくて、それよりもさらに突っ込んでプロたちの目から繰り出される指摘や言葉に「なるほど、そこか!それか!そーゆーところか!!」って、こちら側に気付かせてくれたり、発見になったり、こちら側の智の積みにもなったりできて、30分のバラエティ番組とはいえ、むしろそのくらいの瞬発性のものだからこそ、ダラダラしないでスッと入り込めるし、ついでに楽しめもする、という面白さがある。
つまり
「自分の意見・感想」と「プロの意見」と一致させる答え合わせ
ではなくて
「プロの意見で指摘している箇所」を見て「なるほど!こーゆーところか!」と一致させて見れる面白さがある。
これで大切なことは、「正解を求める旅」をしているわけではない点。
これが正解、こ~でなければダメ、この意見が正解、この見方が正解!
ということではないんだよね。
だからもちろん「自分のかとみな観賞」で述べてることが正解だ、なんて思って語っている気はさらさらない。
そこじゃなくて
1+1=2
なんてそんな単純なモノではないから、正解を求めるのではなくて「多様な見え方」「いろとりどりの感じ方」を楽しむべきところで、そこに潜むモノが深ければ深いほど抉り甲斐があり、豊かな表現力となり、味わい深い、感動という名のたくさんのお宝が発掘される崇高な作品となっていく。
で、それをガチのプロの人らがどこをどう見えて、どこにどう感じて、どこで何を思ったのか?
それが披露されるという点で、AKBINGO!のこの手の企画はなかなかに楽しく面白く興味深くも観れるというワケだ。
さすが、アイドルを指導しているだけあって優しい言葉を以って語っている…
あの日の鬼とは違う(笑)
これだよね。。。
ネット上に有象無象に転がっている馬鹿どものご意見・ご感想とはまるで世界が違う「見えてる人ら」の言葉。
鞘師里保のくだりでも述べたけど、間接的にでもこーゆー視線が彼女に少しでも向けられていれば、もう少し長く踏ん張って活動できただろう。
でもまあ、無理だよね。。。
ヲタらが、アイドルを推す、って、そーじゃないもんね。。
だからこそ、個人的には、こーゆーガチのプロの人らが加藤美南の劇場公演なりを見て、彼女のアドルパフォーマンスについて指摘して御意見・御感想を述べてもらって彼女の智の積みと自信と世界の開けに役立つような、そんな大それた妄想をせずにはいられない。。
あの子をヲタ専用のままで終わらせていいはずがない。
そー…今回の企画では
かとみな出てなかったね残念。。
だからそのー
前回(田野ちゃん相笠萌なんかが出た回)は、バレエとかもあってもう少しひらけたジャンルで遊べてて、前回の方が楽しくもあった。
「バレエ」と、「ガチガチのダンサー」と、どう勝敗を付けるのか?
何を以って勝敗が付くのかって、そーゆー面白味もあったんだよね。
ついでに審査員も今回よりは多岐にわたっていたと思う…
もちろん今回のこの企画は「昭和のアイドル楽曲を…」っていうテイ(企画)なので、そーゆーものとして楽しむべきところなんだけど、ダンスのジャンルはもっと広くしても良かったのにな~と、少し残念でもある。
で、前回の怖い怖い兄ちゃん…
今週の回では、だいぶ優しくなっていた(笑)
前回はガチの審査でアイドル達を涙目にしまくってた鬼の目の兄ちゃんも、なにかこう、今回はだいぶ優しい感じになってて面白くもあった。
前回はもう一人だけ浮いてて「いい意味で」アホやなコイツ(笑)
と自分的には面白かった。
前回のアレはあれで別に「アイドル如きが!」って悪意を以って述べてる言葉ではないからね。
内面世界を抉り見れるプロの目から出てくる言葉なので、あーゆーのを「アイドルに対して」バシっと、言ってくれるって素晴らしいことだしありがたいことだし、その言葉を受ける彼女たちにもちゃんと見る目と理解する心があれば智の積みにもなるし、しょ~もないバラエティ番組ですら、真剣にやってくれてる裏返しでもある。
だから間違っても「アイドルを泣かすとは何事だ!」
なんてアホ丸出しの見方を視聴者がしてはいけない。
さあそれで今週はというと…
やっぱりこの人は心理面や内面世界の抉りをやってくる…
自分と同じ、というと相手は真のプロなので無礼になるが、作品鑑賞の楽しみのポイントをそこに置いてる人なのかもしれない。
「腰の回し方に恥ずかしさが残ってた」
ってそれはお前の思い込みだろ!お前の想像だろ!勝手にお前が思っただけだろ!!
って常に突っ込まれる危険性のある「演じ手の心理面や内面世界の抉り」を、この怖い兄ちゃんは積極的にやる。
だから演じたアイドルの視点で(たとえば)
「別にあたし、恥ずかしい気持ちなんてないのにな~…この人の言うことは間違ってる」
ってなってはいけないんだよね。
「そーゆー風に見られてしまうくらいに、出来てなかったんだ」
って、咀嚼し改良していかなければならないんだよね。
もちろん例えばの話。
あれだけ踊って魅せれる連中なのだから、心も健やかで理解力もあるのは言うまでもない。
積み方を知ればこそ、たどり着けてるクオリティ。
それと、この怖い兄ちゃんを
「あの人はアイドルのバラエティに向いてないから今回呼ぶのはよそう」
とはならないんだよね。
ちゃんともっかい呼んだ作り手の番組(世界観)作りに対する意気込みと素晴らしさもうかがえる。
それとー、前回いたっけ?女性の審査員
どーしたってこの手の審査では「ダメ出し」したほうが「っぽく」見えるし、貫禄も出るし、審査員としての格にもなる。
それでこの手の審査で女性審査員はどうしたって、「褒めに寄る」傾向が強い。
でもそれが、素晴らしいんだよね。
もちろんすべてがすべてみんながみんなそうではないけれど、不思議と行ききったプロの女性たちって、「褒め処」「良いところ」「良かった探し」をしてくれるものだ。
だから逆に見る目のない馬鹿どもからすれば
「審査員っぽくない」
「審査する者として弱い」
「なんか雑なコメント」
「素人でも言える」
「気を使ってる」
なんて言うのだろうがそうではない。
特に女性は共感する能力に長けているから、女性が「褒め処」や「良かった探し」をしてコメントしてくれることは非常に意味があり、男の単なる物言いとはだいぶかけ離れて威力が高いことにもなる。
だから、と言ってはこれもまた語弊があるかもしれないけど、「ゲイ」とか「オカマ」とか、あの辺の人らが結構こーゆーアーティスティックな世界で特に指導者として活躍していたり、コメント述べる立場でいたりするのも、実は理にかなっているし、深い意味があればこそでもある。
話変わるが…
総選挙、出ないとした伝説のアイドル化へまっしぐらの「ゆいりー」
偉いもんでデビュー当時と比較してここ最近めちゃくちゃ美的面の映えが著しい…
いいね、こーゆーのも。
テレビに出たりしてテンション高めて垢抜けて可愛く綺麗になっていくのではなくて、劇場公演頑張り続けて得た美貌。
可愛らしさの中に揺るぎない自信と力強さが感じられるまさに「女神」と呼ぶにふさわしい、アイドルとしての魅力が備わっている…
そんなことはどーでもいいんだけど、「出来栄え」としてはアイドルパフォーマンスのそれとは一線を画す今回の企画のダンスを見て、ゆいりーやその他大勢のメンバーたちは何を思うのだろう…
間違っても卑屈になってはいけないし、好きなメンバーのだれだれちゃんカッコいい~♡ステキー!勝って嬉し~い♪ってミーハー気分で見ていてもいけない。
「自分には到底無理なことだな~」
っていじけたりするのではなくて
「アイドルがすることじゃないwww」
なんて自己防衛して逃げてもいけない
「パフォーマンスすること」の情熱や活力の糧として見て感じ取ってほしいよね…
山田野絵なんかがだから一番伝わる。
純粋な目で見ていて、なおかつ、「自分も、下手は下手なりに、でもちゃんと負けないように、頑張ろう!」って気持ちを抱ける心の持ち主。
パフォーマンス=ダンス
ではない。
自分が自信を持っていること
その自信を持っているそれすらたかが100点中5点のレベルかもしれない。
この企画で出場してる彼女たちのように素晴らしいようにはできないレベルかもしれない。
でもそこで卑屈になって投げ出すんじゃなくて、5点でも全力でもぎ取りに行く姿勢、情熱。
なぜアイドルが歌やダンスが下手でもいいのか?
下手くそなのに成立できるのか?
山田みたいなしょ~もない顔でも美しく見えるのか?
ここを、演じて無理からやるのではなくてがむしゃらに、一心不乱に自然とできる子が、やっぱりアイドルとして映えるし、強いと思う。
AKBという手握りアイドルと言えど、潜むべき芯は、ブレていないはずだ。
だから実は、壇に座って観ている彼女たちの心を探ることも楽しげでもある回なのだ。
個人的にはこれが最も優れて良かった場面。
ダンスと関係ねーwwwww
という花粉まみれの草感は容易にわかる。
でもこれはすごく大切な部分でもある。
いま話題の世界的なスターとなったテニスプレイヤーの大坂なおみは、スピーチの素晴らしさも込みで盛大に称えられている。
どいつもこいつも皆同じ「ロボット」がやるのではない。
全て、様々な心を持った「人間」がすること、なすことである。
あーゆースピーチを繰り出せる女性だから、テニスでもあーゆーパフォーマンスにたどり着ける…
それと同じでステーキ200グラムを繰り出した、繰り出せたこの子だから、あーゆーパフォーマンスを繰り出せる…
という見方。
これを良しとして述べれるものは天才・異才の部類なのでなかなか難しくもある部分。。
世間一般みんながみんな「すごいね!」「いいね!」「カッコいいね!」と上っ面しか見れない中で、どれほどここを良しとして、ここ発信で見れるだろう。。
極端な話、200年後300年後、ロボットがテニスの試合をしたりダンスを踊っているだろう。
そうなった時、むしろ人間よりもはるかに高度なテクニックを繰り出して「見栄え」で圧勝していることは想像するに難くない。
賢い人工知能が感動的なスピーチを繰り出すことも容易いだろう。
しかし…
極端な話、2000年前3000年前の原人らが我々人間の繰り出すそれらを見て感動したとして
原人らが何を以って感動したのか?どこを以って心奮わされたのか?
にあたる「それ」を理解し体現すること。
見る者たちがそこさえ失わなければ、人間が表現するそれらも廃れることはないだろう。
だから彼女たちのパフォーマンスの後のコメントで審査員が
「ステーキ200グラムって言ったそれが良かったよ。」
って述べたらもちろん
「そこしか褒め処なかったんかいwww」
「ふざけてる」
「失格」
って盛大に賑わうのは間違いない。
もちろん3人の審査員は真面目だしちゃんとしてる大人たちだからそんなことを述べやしない
でも稀に、単なる一見では「ふざけてる」様に見えてしまう言葉や動きに、実は深い意味が隠されていたりもするものだ。
ダンスに特化した目、だけで終わってはいけない。
物事を見抜く目を持てばこそ、理解が可能な深世界って、やっぱりあるものだ。
そしてなぜか、みる目のない連中たちの言葉が正解となってしまう傾向。
それが、サルの惑星を生きる面白味でもあり、後に訪れるロボットとサルとの戦いでどうなるのか、さらに面白くもある部分だ。
自分のかとみな鑑賞会やBird、ヤマダガイル、あるいはプロレス他多数はなんだって何度も繰り返し見て繰り出している。
この人らの言葉は、その場限りの一発初見で述べている言葉であって
やっぱりプロってスゲェなぁ~、って思うね。。
踊ってるアイドルたちよりも、自分はそこに感動した。。。。。。。。
※「後付け」に関して言えば、頭や心が豊かであればあるほど(つまりプロの人らであれば)「後になってからも、次々に、いろいろなイメージが沸き上がる、沸き起こるから」、後出しじゃんけんしたみたいに思われてしまうようなことも言うことだって多々あるだろうけど、「後付け」が悪い理由など基本的にはない。