AKB48×ハロプロ 現代アイドル読解学

今をときめくアイドル達の輝きとそれらを取り巻くヲタらの生態を研究・観察していきま~す。

AKBアイドルの魅力とは何だろう?

 

ブログ開始してちょうど1年だって…365記事には程遠かった。。

天才須藤凜々花の研究と偉人指原莉乃の人気の秘密を探る会とかもはや欠片も無くアイドルバラエティ番組の単なる感想文でしかないけどそれもまた良し。むしろそっちの方が好評という有様なのだからなお良し!

ハロプロの頃はもう少し歌や楽曲、歌詞世界を楽しみそれらを紡ぐ女の子たちの成長ぶり、変化の度合い、理解力なんかと絡めて幅広く楽し気だったけどいかんせんAKBアイドルは人数が多いのと本当にAKBグループってのは激流の如くめまぐるしい激動の活動日和なもんだから、お、それ面白そうだね!ってそれについてみる時、あっという間に終わって次もう進んじゃってたり、別の場所では違うことやって盛り上がってたり、しかも大人数で数攻めされたんじゃ追いきれない。それで歌に関してはかとみなのアクセルで痛感した「これ…生歌じゃないんだよなぁ~~~~。。。」という恒例の切なさ、残念さ。ハロプロ勢とは大きく違ったスタイルで、それはそれで新鮮であり楽しくもあるがマイナス面にも裏返る。

 

そこそこ幅広く観てきて感じたこと

自分流に「AKBとは…」を表現すると…

AKBってもんはカップ焼きそばみたいなものだ!

…と。

カップ焼きそばは焼きそばっぽいけど焼きそばではない、でも焼きそばっぽい。

カップ焼きそばは焼きそばというテイのカップ焼きそばといういち個のジャンル、新種だ。

「こんなもんは焼きそばじゃねー!邪道だ!」

って言うのもあり。

「見た目ぜんぜん焼きそばじゃんwwwww焼きそばでいいじゃん!」

って言うのもあり。

なんだったら本物の焼きそばを知らないこどもたちは刷り込み現象的に先行すれば「これ(カップ焼きそば)こそが焼きそばなのだ!」なんて思っているかもしれない…さすがにそれはないか…。

カップ焼きそばは焼きそばっぽいけど焼きそばではない、でも焼きそばっぽい。


それと同じでAKBのアイドル達もアイドルっぽいけどアイドルではない、でもアイドルっぽい。

「こんなもんのどこがアイドルだバ~カ!」

って言ってもいいし

「いやいやいやぜんぜんアイドルじゃんwwwボクちゃんたちにとってはアイドルなんだよ!」

って言ってもいい。

なんだったら本物のアイドルを知らないこどもたちは先行して刷り込まれれば「これ(AKB)こそがアイドルなのだ!」なんて思っていたかもしれない…これは結構あるんじゃない?

 

AKBといういち個の確立された「AKB」というジャンル、新種だったんだよね。

各々が持つ「アイドル像」「アイドルとはこうだ!」「アイドルはこうでなければならない!」という意思を持ち込んではいけなかったんだよね。「AKB」のやり方が常に正解でそんな「AKB」というものをただ楽しむで良い、と。

もちろん各々の像を持ち込んでもいい。持ち込むからには「っぽい」への対処として多角的な見方捉え方や多彩な感受性が要されるし、裏切られることもあるだろう。

 

過去のアイドルとは一線を画して違った存在…異質な世界観…

そんなことはわかってるよ!何を今さら…とそれはそれで間違いない、すると大切なことがここにあって「わかってるよ!」と芯を突いて言えるのは内にいるファン、ヲタ、AKBを知る者、常連さんや通な客人でしかないんだよね。世間一般の人は「そんなこと」は知らない深みにいない。これがギャップというかもう一歩理解し損ねられてる惜しい部分というか、「あの集団は焼きそばだ!」と思われてるふしが間違いなくある。「アイドルなんでしょ?」って。

自分も、ハロプロで、現代アイドルに多少なりとも触れていながらにして、AKBはなぁ~、なんだかなぁ~…って毛嫌いしていたふしがあったのは大々的に伝わってくる一部の情報によってであってたとえば大量握手売りとかCD捨てたりとか(これをやっているのは病的ヲタらなのにその根源的に音楽を売りつけているアイドルに標的が向くのも仕方がない)金儲け丸出しの粗末な数攻め、性商売、会いに行けるお散歩観とか。

たとえ「アイドル」そのものに興味なくても知らなくても、テレビや歌番組なんかで「アイドルグループの何々でーす!」って聞けばそーゆーものとして自然に「へ~」なんて目に映り印象に残り、笑いでも取ろうものなら心にだって残るかもしれない、それが普通のあるべき姿。

ところがAKBってのは汚いイメージとか悪いイメージが大々的過ぎちゃってそこに目が行ってしまうんだよね。

SMAPの中井くんの言葉

「(AKBアイドル)キミたちさ?CDで自分たちの曲聴いて、自分の声ってわかるものなの?」

これは傑作だったね。

傑作だったと同時にそれはまさに「焼きそば」だという思い込みから来る偏見だった。カップ焼きそばだったのか!と気付けるといいんだよね。そっちか~…って。そっちのパターンねって。カップ焼きそばには、麺を炒めるジュワァァァな音が聞けないじゃないか?耳を楽しませるリアルな音は無だ!カップ焼きそばを美味しく食すためにお湯(水)を捨てるのは必然と同じように、AKBはCDを捨てていいんだね!って、CDを捨てるところまでが遠足なんだね!って…いや、…CDを捨てるところからがスタートなんだね!って、気付けると、まるで見え方が違ってくる魔法がそこにはある。

よほど好意的に興味をもって向こうから見に来てもらわないとなかなか気づいてもらえない切なさがあるのは小嶋真子の言葉からも分かる通り。やってるAKBアイドル達も痛感しているところなのだろう。

「ちゃんと観てくれれば私たちの魅力、AKBってすごいって、分かってもらえる!」…と。

 

とはいえ…

カップ焼きそば(やカップラーメン、インスタント食品)なんかを汚いものを見るかのごとく見下して「なにそれ~貧乏くさい~」「そんなの食べないしwww」なんてそのジャンル自体を毛嫌いする本物志向?の人たちも多くいるわけで、そんな人たちにはそもそもがカップ焼きそばフォーティーエイトはなかなか簡単には刺さらないのもまた確か。

いくら「そーゆーものなんだね!」と知ったとて、大量握手売りや音楽を粗末に扱っているやり方が日本人的に見て「良いとは思えない」し、劇場公演のクオリティや各々の歌とダンスのアイドル歌手としての基本が抜け落ちてる無様なやり方はどう見たって「良いとは思えない」。小嶋真子は心技体揃ったカッコいいアイドル女子なんだけど、数が多すぎるから「駄目、駄馬」の方がどうしたって目についてしまうしそんなカッコいいアイドル女子もその中に放り込まれてそのやり方でやるなら腐るしか術が無い。「こじまこフォーティーエイト」であればもう少し好意的に見られただろう惜しくもあるが、それが「AKB」というジャンルなんだよねだから。

各々が持つ「アイドル像」「アイドルとはこうだ!」「アイドルはこうでなければならない!」という意思を持ち込んではいけない、「AKB」のやり方が常に正解でそんな「AKB」というものを楽しみたい人が勝手に楽しめば良い。

江戸時代のお茶屋の看板娘的各々のアイドル像を持ち込んでもいい。持ち込むからには多角的な見方捉え方や多彩な感受性によってAKB風に寄せて変換する技量が要されるし、あっけなく裏切られることもあるだろう。

それで新種ってものは出たては若者こどもの心と目を引き「今流行りの!」でウケもする、大々的に取り上げてもらって宣伝されて大人気となって大流行するものだが、AKBもそろそろ14、5年…?そうなってしまっては、スーパーの棚の薄暗い一角に置かれるいち商品と化してあとは、好きな人が買えばいいんじゃない?とか常連さんが買ってくれる専用に存在しているとか、「お、なんだろうこれは?」なんて新規さんが買ってくれてそこからハマることもあるかもしれないし、実は長期にわたるヒット商品でガッサーって目に付く大きな明るい棚にまだ置いてあるのかもしれない。

好きな人だけ買えば?

という排他的態度か新規の人も買ってね~という楽し気ウエルカムかどうかはやってるアイドル達と作り手黒幕たちとでやってもらうとしてこっちはこっちで自由に気ままに節度と愛情を以って目と耳を楽しませてもらえばいい。

どうしても、インターネットやSNSやなんかでついついそーゆーものだと思ってしまいがちだが、善良なる市民のファン・ヲタとアイドル達は案外健気に地道に楽し気に大なり小なりの熱量を以って各々の活動をしているものだ。

だからこそ握手売りや数攻めやなんやと邪悪な要素をかいくぐって、AKBを見るのではなくて、「だれだれ!この人!コイツだ!」って、「いち個人」「青春少女時代」にたどり着けると良い。「AKB!」っていうグループとか全体とか群れ観で見てしまうとかいくぐるのが難しい。。どうにかそこを突破して、突破した先にあるものは、思っていたより綺麗で心地良いカッコいいアイドルっぽい「なにか」がある。その「なにか」にたどり着けるかどうか…ナニではない。

たまたま自分は「須藤凜々花」で、なるほど!これがAKBなのか!って理解につながった(頃にはとうにアイドルりりぽんは卒業していた…)。

 

色々ゴチャゴチャ書いたけど、AKBってものはカタストロフィックな存在ではなくて、単なるカップ焼きそばだ!って感覚で気軽に触れてみて、気に入ったならあなたなりのやり方で節度を以って楽しめばいい、外から見ていた時よりも、実は全く邪悪なものではなかったのだと気付かされる。