AKBINGO!EP486(トカゲのしっぽ)アイドルらしく、アイドルらしさを込めたれアイドル達よ!
さすがに2回にわたってふざけすぎた感があるので真面目な話でパート3。。。
ここで作品に込めたるのイメージとしてお皿洗いを例に出して述べたけど、見栄えの良し悪しとはまた違った中身に潜む面白味の放り込みとは?ってくだり。
だからAKBGだと総選挙があって、経済効果抜群の一大イベントがあるワケで、これがある種の「不朽の名曲ソング」だとすると、あとはそれをどうやって遊ぼうか?どうやっていじってみようか?どうやったらより面白くなるだろうか?ってところを考えるのと同じ。
アイドル達の総選挙という仕組み(歌という作品)をポンっと発明しました、と。
(儲けやなんやはさておき)あとはそれをそのままずっっっっっっっっと同じままで続けていく(歌っていく)のか、こーゆーアイディアはどうだろうか?とかこんなことやってみようか?とか、2016NHK紅白歌合戦の選抜みたいなこととか、「アイドル達の総選挙(不朽の名曲ソング)」を利用していろいろな遊びを放り込んでそのソングを良くも悪くもいろいろな形に演出して魅せること。
もちろん、それ(総選挙)は様々な要素や大人の事情が入り組んで、そんな簡単には遊べるはずも無いし、勝手な妄想で終わるしか術がない。
しかし、本物の「歌や振り付けやパフォーマンス」つまり「アーティスティックな作品」には、妄想止まりのそれらをふんだんに放り込んで演じることができるという魔法があるのだ。
演じるのだからつまりはそう、演じ手たちが、それをしなければならない。
総選挙という不朽の名曲ソングを利用して考えるのなら、誰もがやってるそれそのままをただ演じてしまうだけなのか?
あるいは自らの頭と心で感じ取った閃きや映像を放り込んで、個性豊かな世界観を持つ「不朽の名曲オリジナルソング」に仕上げてより面白い見応えのある「なにか」に変えて繰り出すのか?
これは見かけ上の「見栄え(振り付け)」の話ではないし、歌でもなんでもそう。
与えられるモノはそのモノで絶対的にある。
まして彼女たちに作詞・作曲なんてできないのだから、与えられて然るべき。
その与えられたものに対して、「それ自体がダメだよね、良くないよね。」ってことではなくて、与えられたそれに「何を込めたか?」ってところが、演じ手らにとって大事になってくる。
そんなことは当たり前なんだけど、結局いつだってこの当たり前の初歩中の初歩のそれが、最大の難関となってアイドル達の前にデッカく立ちはだかるということなのだ。
もう何度も語ってきたのでそろそろ止め時ではあるが女の子ってなかなか遊びが足りてないし、そもそも日本人が(今はだいぶ違うかもしれないけど)基本的にはやっぱり「クソ真面目」で「頭の固い堅物」の傾向がゲノムとして心のどこかにあるものだから、もちろんそれらは時と場合によってはとても素晴らしい「性格」として称賛されもするんだけど、アーティスティックな世界観を描くうえではどうしたって邪魔にもなろう。
しかも困ったことに彼女たちは「10代の女の子のアイドル」なのだから、なかなか、その思考にすらたどり着くことができないでいる。
話は脱線するが自分はハロプロからスタートしてAKBにたどり着き、アイドルに興味すらなかった最初こそ「なんじゃこの無様で気色の悪い寒々しいウ〇コ顔に塗りたくって恥辱にまみれた病的なパフォーマンスは!!!」
なんて思いもしていたけど、ヲタらの言うところの「成長物語の楽しみ方」や「アイドルの正しい鑑賞方法」などを知った今となっては、だいぶ見え方・観方・考え方・感じ方も変わってきた。
もともと良かった探しは得意だし好きだったけど、ここまで「へりくだって」見つけなきゃならんものなのか…とも思うが、しかし確かにそれはそれでとても面白いものだ。
大切なことは「へりくだること」であって、上から目線でどうのこうのと偉そうに観賞するのではないし、親御さんの目線で「いいねいいね、可愛いね~」でもない。
それでまた「お皿洗い」のくだりに戻ると、お皿の洗っている姿や洗い方の上手さなんてものは「小馴れ」によって、見栄えも良くなっていくものだ。それはなんにだってある。
その見栄えも、もちろん重要だし、大切なことなんだけど、その土俵で勝負したってそもそも勝ち目のない世界なのだから、そこよりももっと、概大抵皆可愛い10代の女の子が、「作品の込めたる」を上手くやることで、ヲタらの言ういわゆる「成長物語とそれの見抜き」がより一層楽しくなって、「この子をもっと推したい!」「この子にもっと声援を送りたい!」って、より一層盛り上がることができるエネルギーの源となる。
しかし残念ながら今はまだまだ「洗い方、洗う姿勢」の上手い下手でしかアイドル達もできていないし、観るヲタらもそうなってしまう。(あるいは、アイドル達がそうなのだから、仕方なくヲタらがそこを見るしか術がないとも、言える。)
だいぶ極端になってしまうが、要はこーゆーこと。
基本的には先輩たちは皆、このパフォーマンスでは「刀?に見立てた新聞紙丸めたような棒っきれ」を振り回していた。
しかし、加藤美南は得意とする「バトン」にしたんだよね。
で、ここが大切で
この「愛しさのアクセルのパフォ―マンスの間奏部分、バトンでやりたいです!」
って、加藤美南自身が言って、やってくれていると、ファン、ヲタとしては、それが嬉しいんだよね。
この部分がまさに、最初に述べた「総選挙という名の不朽の名曲ソング」を利用してのあそび、いじり、個性という名の描き、にあたる。
与えられるものは「愛しさのアクセル」であり、その演じ手の加藤美南が、過去の先輩たちのやっていることとは違うやり方を「放り込んで描いてくれた」のであって、それが楽しいし、面白いし、見応えになる。
しかし…これを演出家や振り付けの先生が、「ねぇ、かとみな?愛しさのアクセルの間奏部分、バトンでやってみよう!」「あ、いいですね!わかりました!」だと、やっぱりファンやヲタたちは、それが事実として突きつけられると、ガッカリもする。
かとみなのバトンは都合がよかった半面、見栄えそのものなので、深い芯を例えとして理解してほしい。。。
物を使えとか、他の人と違うことをやれとか、そういう単純なことともまた違って、「込めたる」「入れ込み」なんだよね…
バトン=○○○○ ←???
だからAKBINGO!に戻って濱ちゃんたちのダンスシーンでの一場面
ただいま絶賛推し変中の「セリカ姫」こと永野芹佳さん。。のムーンウォーク
ここはやっぱり個人的に観ていて苦しかった場面。
それで前回、こんなことを書いたっけ…
アイドルだから下手でもいい!!
っていうのはもう痛いほど十分にわかってるんだよ。
見栄えの下手さは可愛い見栄えでフォローできる!
それがアイドルの最たる強みだ。
だからこそ、作品へのこの入れ込み、「込めたる」を出来るようになってくると、アイドルを馬鹿にしている連中らがもしこの世にいるとすれば、そういった人たちにひと泡吹かせてやれる少し高みに上がった「カッコいいアイドル」として映り咲くことができるし、それが他者とは圧倒的大差を以って勝利し咲いた「高嶺の花=アイドル」であり、そんな彼女たちが卒業し去って後、他の子が歌い踊るそれを観た時、かつてあの子が何を込めていたのかをふと思い出して感じ入り、感傷に浸ることで、あの日の美しく咲いていた花を懐かしむこともできる。
ぶっちゃけ審査員らの言ってることだって客観的に見りゃそりゃあなかなか何言ってんだよって話で、何の宗教の教えだよってレベルの絵が見えてこない言葉の羅列でしかないし、じゃあどうやってやるんですか?ってイマドキの若者丸出しで喰ってかかって来られたって、彼らだって深くは説明することはできないし、そもそも「そんなものはてめーらで考えてやるんだよ!!」ってそーゆーレベルのことなのだ。
「できないならできない」で、別にいいんだよ、誰も何にも知ったこっちゃない。
「出来る人が出来れば」それでいいだけの話。
だからこそ、ただの無様なはしゃぎのその一歩上を行くことが、今のアイドル達に求められている真の意味でのクオリティアップに必要となる。
それでここが大事なところで、これを繰り出せるようになってくると、現代アイドル第二章の幕開けとなるのだ。
自分のような歪んだ偏屈なひん曲がり丸出しの(ある意味では普通だと思うが)一般人が、アイドルの外見や世界観では決して魅了されることも無いし洗脳されることも無いしすがりつくことも無いようなごく普通の一般の人たちでも、「メロディに込めて、メロディに乗せて」パフォーマンスを繰り出して来られると、場合によっては「おおっ!」っと魅かれてファンになる可能性が高まる。ミミズで容易に釣れるヲタら、ではない新たな清らかなファン層の獲得の可能性。
加藤美南は歌が残念だったので今一歩及ばなかったものの、加藤美南で危うくヲタ化するところだった自分は、まさに述べたように10代女子らがしかも一応カワイイとされる及第点ギリっギリの女子らが「込めたる」からメロディ(芸術的なもの)やダンス(性的魅力の発散)やしゃべり(ユーモア)を繰り出せれば、アイドルの地位と評価の向上になるんじゃないかな~って、そう思うよ。。
そしてそれは、アイドルを卒業した後の芸能界での活動でも存分に役立つ能力であり、なぜあの日の大島麻衣が島田紳助の隣に立てたのかと通ずるところがある。